ボッシェンダルは、フランスのぶどう栽培の伝統を継承する最古のニューワールドワイン生産者のひとつで、その歴史を1685年にまでさかのぼります。
「Bossendaal」(森と小谷)は、当時の知事であったサイモン・ファン・ダー・ステルにより、1685年にフランス人 ジャン・ル・ロンにその所有権を与えられました。
ル・ロンは、「ナントの布告」の撤回後の宗教迫害から逃れるためにフランスを離れた、多くのプロテスタント・ユグノー教徒のうちの一人でした。
1715年には、同じくフランス ユグノー教徒のぶどう生産者であったド・ヴィリャーズ兄弟、ピエール、アブラハム、ジャックの3人に所有権が移ります。
彼らのもとでボッシェンダルは繁栄を遂げました。
1812年には、ジャックの孫であるポール・ド・ヴィリャーズにより、現在は国定記念物に指定されている印象的な領主邸が建設されました。
ボッシェンダルぶどう畑は、その後164年間の永きにわたりド・ヴィリャーズ家により運営されますが、1879年にはオランダ人D.J.レティフの手に渡りますが、そのわずか7年後には、D.J.レティフは破産し、J.G.C.マイバーの手に渡ります。
1896年にドラケンスタインバレーのぶどう畑が、フィロキセラ(ぶどう根アブラ虫)の害で軒並み全滅しました。 セシル・ジョン・ローズがこの地域のぶどう畑を買いとると、被害を受けた古いぶどうの樹を抜いてしまい、かわりに果樹園に変えてゆきました。 ボッシェンダルは、今日 ローズ果樹園として知られる農場の一部にあります。 1902年のローズの死後、農場は、ダイヤモンドで有名なデ・ビアスの管理下におかれますが、1936年にはエイブ・ベイリー卿に売却されます。
1941年のベイリー卿の死後は、マック・ドナルド、クリーン、リチャーズ、スタークの4人のシンジケートの働きにより、デ・ビアスとアングロ・アメリカン・コーポレーションの所有となりました。
現在は、南アフリカの鉱山王、アングロ・アメリカン・ファームズの所有となっています。
ボッシェンダルがぶどう畑を持つフランシュック・バレーは、南アフリカのぶどう栽培地域の中でも名醸地として知られています。
年間降雨量は1200mm、その70%が冬の数ヶ月間に集中するため、ぶどうに早春に充分な休眠期間を与えることができ、夏の間は良く乾燥し、適度な温度が持続するという、ぶどう栽培には理想的な気候を持ちます。
ぶどう畑の面積は3000ha。
ベルク河添いに、サイモンベルク山まで、14kmも続き、肥沃なフランシュック・バレーを形づくるボッシェンダルのぶどう畑では、何種類ものヴァラエタルが栽培され、成功を納めています。
栽培面積の多くを占めるのはシャルドネで、現在、ソーヴィニヨンブランやセミヨンの栽培面積も拡大中です。 また、カベルネソーヴィニヨン、メルロー、ピノ・ノアール、シラーズなどの赤ワイン用ぶどうの拡充も急ピッチで進められ、20世紀の終わりまでには、ボッシェンダルは南アフリカトップの赤ワイン製造者のひとつになりました。
土壌とぶどう品種の適合には細心の注意が払われます。 河の付近、海抜120mのエリアはローム質のオークリーフ土壌で、セミヨンやマスカット・アレキサンドリアなどの品種に良く適合します。 斜面を登り、海抜250m付近では土質も様々で、カベルネソーヴィニヨン、ピノ・ノアール、ソーヴィニヨンブラン、そしてゲヴルツトラミナーなどの品種が栽培されています。
海抜350mの付近は、Tukulu、Pinedine、Bloemdalなどの土壌で構成されており、底土に高い粘土質と砂利質の土壌を持ちます。 海抜が相当高いおかげで、夏にはより涼しい気候となるこの付近では、シャルドネ、ソーヴィニヨンブラン、メルローなどに繊細なヴァラエタルフレーバーを与えることができます。
サイモンベルク山にほど近い海抜450m付近まで来ると、粘土質ロームとTukuluの土壌を持ち、極めて涼しい気候のもとで卓越したヴァラエタルフレーバーを持つソーヴィニヨンブランを栽培することができます。
この傾斜斜面と、様々な高度に位置するぶどう畑から収穫される、それぞれに異なった糖度、酸度のぶどうが、バランス良く組み合さることによりボッシェンダルのワインに多様性を与えています。
ボッシェンダルの涼しい気候のぶどう畑で生育したぶどうは、糖度が低く、なおかつ熟した果実の濃厚なフレーバーをもつワインを生み出します。
各々のワインは皆異なった個性を持ち、しかしながら、そこに一貫したフィネスとエレガンスを持ち合せています。
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